今日は憲法記念日ー緊急事態条項について考える

 今日は憲法記念日。今年も各地で憲法改正を求める集会が行われました。

 憲法改正を唱える人の中には,これまで一度も改正されなかったのはおかしい,と言う人もいるとか。

 でも,憲法はファッションではないのですから,変える必要がなければ何百年でも変えなければよいわけで,変える必要性を説得できなかったご自分たちの力のなさを棚に上げて責任転嫁した言葉としか思えません。

 そもそも,何かを変えたいと思えば以下のことを提示して,変える立場にある人たちを説得し,納得させる必要があります。

 

一 問題の所在

 つまり,問題がありますよ,ということ。

二 解決策

1 提示した解決策が一の問題解決にもっとも適していること。

  何事であれ変えるという作業はそれなりのコストを要しますので,そのコストが得られるメリットに比べれば少なく,かつ他に想定しうる解決策に比べても少ない,ということもここに含まれるでしょう。

 2 その解決策を取ることによって新たに発生すると予想される問題について,そのような問題は実際には発生しない,または発生しても対処可能等で,その解決策を取ることによって得られるメリットに比べればデメリットは少ないこと。

 

 改憲論者は,これまで一については声高に様々述べてきましたが,二についてはからきしダメだったように思えます。

 たとえば,自民党は2012年に発表した憲法改正草案で、次のような条文を提案したそうです。

 

 第98条(緊急事態の宣言)

 1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

 2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。

 3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。

 4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

第99条(緊急事態の宣言の効果)

 1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

 2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。

 3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。

 4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。

 

 2012年といえば,民主党政権の時代です。もし当時この条項があったらどうなっていたでしょうか。

  東日本大震災の翌年ですから,緊急事態の宣言を発する口実はありました。

 国会の承認を得なければなりませんが,事後でも良いのです。いつまでに得なければならないという期限はありません。得られそうになければ承認案提出は留保してゆっくり根回しをし,得られそうになってから承認案を提出すればよいのです。民主党衆議院の過半数を制していましたから,衆議院では承認を得られたでしょう。98条4項の規定では予算の決め方についての条文である60条2項を準用していますから,これを加味して98条4項の規定を表現すると「参議院衆議院と異なった議決をした場合に,法律の定めるところにより,両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき,又は参議院が,衆議院の可決した承認案を受け取った後,国会休会中の期間を除いて5日以内に,議決しないときは,衆議院の議決を国会の議決とする。」となります。つまり参議院の承認は実は必要ないのです。5日間だけ牛歩戦術でも何でもやって議決させなければ自然成立してしまうのです。

 いったん成立してしまえば,99条1項により「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」のですから,もう国会など召集する必要はありません。野党にうるさいこと言わせずとも「法律と同一の効力を有する政令」を好きなように制定すればよいのです。名誉革命前のイギリスの絶対王政のような時代に21世紀の日本は逆戻りすることになったでしょう。

 99条4項の規定は,元来は緊急事態の最中に選挙などやっていられないという趣旨の規定でしょう。緊急事態宣言が効力を有する期間,衆議院は解散されませんし,衆議院の任期及びその選挙期日の特例を設けることができるというのですから,国民にいくら嫌われようと選挙をせず居座ることも可能です。なるほど,「法律の定めるところにより」とはありますが,同条1項により「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」のですから,仮にその点につき法律ができなくとも内閣が「法律と同一の効力を有する政令」を制定すればよいと解釈できます。

「百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない」ということになってはいますが,国会議員は大体選挙などしたくありませんし,当時は選挙をすれば自分は国会議員の地位を失うだろうと思っている議員も多かったでしょうから,選挙をすれば自分たちが勢力を伸ばせると確信している少数の議員を除いて皆承認したでしょう。民主党が過半数を占めていた衆議院さえ承認すれば参議院の意向はどうあれ容易に自然成立させられたであろうことは既に述べたとおりです。

 つまり,2012年当時この条項があったら,民主党政権が現在も継続し,自民党の政権復帰もアベノミクスもなく,それどころか,国会が開かれず内閣の専断で国政が動く絶対王政のような体制のもと,野党である自民党は国会での発言の機会さえろくにないという状況におかれていたであろう,ということになります。

 そんな自分の墓穴を掘るような改憲案をよく出したものだ,と思います。

 

 もちろん,自民党がこの改憲案を出したのはそのような結果を望んだからではないでしょう。「想定する力」が足りないからだと思います。このような条文があれば,民主党政権ならどうすることがありうるだろう,と想定し,不都合が予想されるならその対策をする,という力が不足しているからだと思います。

 ところで,危機管理というものは,「想定する力」なしにはできません。たとえば火災であれば,まず火災の発生を想定し,具体的にどのような状況がありうるか想定しなければ話になりません。想定した上で,スプリンクラーその他の消火設備を備えるとか,警報装置を備えるとか,対処法を考案して訓練を行っていざ火災が起きたらどうするかということを一人一人にまで徹底させるとか,そういう事前の準備を行って初めて火災に対処できます。

 しかるに,このような条文があれば民主党政権ならどうすることがありうるだろう,と想定できない人が,このような危機が起きたらどうなることがありうるだろう,このような対処法をすればどうなることが起きうるだろう,などと想定できるはずがありません。

 ご自分たちに危機を想定する能力がないことはご当人たちも自覚しているのでしょう。だから,想定外は常にあり得る,などと言って安易に緊急事態条項など持ち出してくるのです。

 しかし,先の火災の例で言えば,事前の準備を怠っておきながら,いざ火災が発生したときになって「おれに何でも従え」と言ってみたところで,何の役に立つのでしょうか?

 あらゆることを事前に想定し,準備しておく以外に危機管理の対処法はありません。事前に準備しておけば命令などなくても各人が自らすばやく事前に決められたとおりに対処するでしょう。もっとも効果的です。

 ただ,大変な作業であることは間違いありませんし,コストもかかります。しかもかけたコストは危機が起きなければムダになります。緊急事態条項など唱えるのは,そういう面倒くさいこと,コストがかかることはしたくないから,そしてそもそも事前の想定をする能力もないからだと私は思います。

 そのような人たちの口車に乗って緊急事態条項など作れば,「いざとなったら緊急事態条項で対処すればいいや。」と危機管理の対処は先送りされてしまうでしょう。緊急事態条項は国民の安全を危険にさらします。絶対に阻止すべきです。

「分配より成長が大事」

 ダマされてはいけません。
 適正公平な分配なくして成長など有り得ません。分配が不当に少ない者は、一生懸命働いてもその成果は他人に取られてしまうのですから、働く意欲など持てないし、まして何かイノベーティブなことを周りと軋轢を起こしてまでしようとは思いません。また、分配が不当に多い者は、苦労して一生懸命働いたり、まして何かイノベーティブなことを周りと軋轢を起こしてまでするよりも、他人の働きに乗っかって分配を得られる今の立場を維持し、できればもっと分配を増やすことに力を注ぎます。その方が楽ですから。よって、苦労して一生懸命働いたり、まして何かイノベーティブなことを周りと軋轢を起こしてまでする者は誰もいなくなります。
 「分配より成長」と言う人の主張をよく分析すると、大抵の場合は要するに自分の分配を増やせという主張に過ぎません。自分は分配を増やしてもらう権利があるとかその方が公正だとか訴えることができないことがわかっているので、未公開株だの馬主だの過去幾多の詐欺師と同様に、自分の分配を増やしてくれれば儲けさせてあげまっせとうそぶいているに過ぎません。本当にその力がある者はそんなことに血道を上げるヒマがあれば儲ける仕事に精を注ぐものです。増やした分配は増えるどころか返ってくることすらまず期待できないでしょう。
 ダマされてはいけません。

認知症患者の鉄道事故の責任は誰が負うべき?

 愛知県大府(おおぶ)市で認知症の男性(当時91歳)が1人で外出して列車にはねられ死亡した事故を巡り、JR東海が遺族に約720万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審で、3月1日に、最高裁第3小法廷(岡部喜代子裁判長)が判決を言い渡す予定です。(以下の記事をご参照:
"認知症の徘徊で鉄道事故 91歳の妻に約360万円の賠償命令 名古屋高裁" http://m.huffpost.com/jp/entry/5209945
"家族の責任、最高裁が初判断へ 認知症患者の電車事故" http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASDG10H9V_Q5A111C1CR8000/
"家族の監督責任が争点に 上告審結審、来月1日判決" http://mainichi.jp/articles/20160203/ddm/041/040/151000c
"<認知症男性JR事故死>「負けられない」1日に最高裁判決" http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160228-00000014-mai-soci
 そもそも、鉄道会社は、客のために、列車を安全に運行する義務があるはずです。そのために、ホームからの転落や軌道への予期せぬ侵入を防止する義務もあるはずです。
 しかるに、例えばホームからの転落防止のために柵を設けるべきだということが以前から言われているのですが、現実にはなかなか進んでいません。列車によってドアの位置がばらばらだという問題もあるらしいのですが、相互乗り入れによって複数の鉄道会社が関わる場合はまだしも、一つの鉄道会社でばらばらだからできないというのは安全意識の低さの表れ、鉄道会社の怠慢以外の何物でもありません。
 今回の件も、そう複雑なことはできそうもない認知症の方が軌道に侵入できてしまったことそれ自体鉄道会社の安全配慮義務違反、過失を強く疑わせる事情ではないでしょうか。現に無施錠のドアがあって軌道に簡単に出られた状況だったようです。下級審はそのドアから出たとは限らないという理由で鉄道会社側の過失を認めなかったそうですが、逆に鉄道会社側が通常要求される注意を十分払っていたのに通常では思いもよらぬ方法で出たため防止できなかったということを鉄道会社側が立証しない限り鉄道会社側の過失を認めるべきではなかったでしょうか。
 鉄道会社が被った被害はかかる鉄道会社自身の過失から発生したものであって、仮にご家族に何らかの過失があったとしても、相当因果関係はないというべきです。例えて言えば、認知症患者が軽い追突事故を起こし、被害者がむち打ち症の診断書を書いてもらうために病院に行ったところ、たまたま病院で発生した火事に巻き込まれて死んだようなものです。この場合認知症患者に車を運転させないようきちんと監督していれば追突事故は起こらなかったし、追突事故が起こらなければ被害者が死ぬという結果は生じなかったわけですが、だからと言って被害者死亡の責任を認知症患者の家族が負うのはおかしいでしょう。
 家族に認知症患者がいない方だって必ずしも人ごとではありません。都会ではホームが混雑しているためやむを得ず端の方を歩かざるをえないことがあります。もしうっかり転落でもすれば、柵を設けない鉄道会社側の問題は不問にして落ちた人が同じ論理で賠償請求されかねません。
 最高裁には国民の信頼を失わないような公正な判決を期待します。

「ホワイトカラー・エグゼンプション」は生産性を低下させる

 先日,労働者の勤務時間ではなく「成果」に対して給料を払うなどと称して,雇用主が従業員に残業代を支払わなくて済むようにする法案,通称「ホワイトカラー・エグゼンプション」が閣議決定されました。

 かかる法案が目指す雇用形態はどのような結果を生むでしょうか? 具体例で考えてみましょう。

 仮に,あるタクシー会社で,運転手に対し,車は貸与する,制服その他仕事上用いる必要な備品も貸与する,会社に連絡のあった配車依頼は公平適切に各運転手に割り振る,その対価として運転手は一定の金額を会社に支払わねばならないが,支払った後残った儲けはすべて運転手が自分のものとしてよいと定めたとします。儲けた成果分はすべて運転手のものですから,究極の成果主義です。

 ではこれでこのタクシー会社の生産性は上昇し,運転手は成果さえ上げれば自分の時間を自由に使え,会社も運転手もハッピーになれるのでしょうか? いいえ,運転手はほどなく,自社のタクシーがやたらに増えたことに気づくでしょう。この方式では,会社が増収増益を実現するには,できる限り多くの運転手と契約するしかないからです。果ては駅その他のタクシー乗り場がことごとく止まれきれないぐらいのタクシーで埋め尽くされて渋滞を引き起こすまでに至るでしょう。タクシーの需要は別に増えませんから,限られた客を運転手同士で奪い合うことになり,長時間努力しても思うように成果を上げられない運転手ばかりになるでしょう。

 でも運転手同士で競争すればサービス向上が期待できる? いえいえ,このようなタクシー会社ではサービスを向上させようという努力は各運転手の個人レベルに限られます。客に対する接遇の向上とか,コスト削減のための工夫とか,そのようなことに限られた経営資源を投入しても,会社は何も得しないからです。極端な話,運転手が定額を納めてさえくれれば,それが売上から出ようと,運転手の貯金,副収入,あるいは借金から出ようと,会社にとってはどうでもいいことなのです。運転手個人が努力しても,会社を通した配車依頼は別の運転手にも公平に割り振られてしまい,自分のところに余分に回ってくることは期待できないでしょうし,それどころか,会社から何ら教育を受けない運転手の質は玉石混淆となるでしょうから,ハズレの運転手に当たるのを嫌った客がそもそもこの会社には配車依頼をせず,その結果自分に回ってくる配車依頼も減るということさえありえます。さりとて,運転手個人に直接連絡を取って配車を依頼する客など決して多くはないでしょう。結局多くの運転手が会社に支払う金を調達するために借金まみれになったあげく辞めていき,会社は事情を知らない人を新しい運転手として採用する,その繰り返しになるでしょう。タクシーが世にあふれる結果,他のタクシー会社も困窮するでしょう。社会問題化すらするかもしれませんが,雇用形態自体にメスを入れられないのであれば,「やはりタクシーの台車や料金は規制すべきだ!」などとカルテルに安住する世界に逃げ込むしかなくなるでしょう。

 問題は,この雇用形態では,会社と運転手(従業員,と言い換えてもいいでしょう。)の利害が一致しないことにあります。会社は組織で仕事をするのです。従業員個人個人だけが仕事し,努力すればよいのなら,会社も経営者も要りません。生産性の向上は組織的な努力があって初めて実現します。有名な「カイゼン」も現場の努力を組織的に活用しようという経営者側の努力がなければ実現し得ません。生産性が向上するには雇用主と従業員とが互いに同じ方向を目指して努力する必要があります。そして,そのためには,雇用主と従業員とが利益とリスクとを公平適切に分かち合う必要があるのです。上記の例で運転手が成果を上げられなくなったのは,決して運転手(従業員)個々人の努力や能力が不足していたからではありません。経営者がすべき仕事をしなければ,従業員個々人の努力や能力ではどうにもならぬことがあるのです。タクシー運転手のように個々の裁量が大きそうな仕事でさえそうなら,もっと組織的に仕事をする他の仕事はなおさらそうでしょう。にもかかわらず冒頭の法案は成果が上げられない原因を従業員のみに帰し,成果を上げられないリスクをすべて従業員に負わせようとしています。なるほど,能力や努力が不足しているために成果の割に時間ばかりかかる従業員もいるかもしれません。しかし雇用主には,そういう従業員を指導し,査定し,結果が出せなければ場合によっては減給したりすることができる権限があるはずです。そのような権限を適切に行使するのが彼らの仕事です。冒頭の法案は,自分の仕事ができない雇用主を助けるだけです。有能で勤勉な雇用主にとっては,負けるはずのない競争相手を支援されて迷惑なだけです。仕事のできない経営者は自分の仕事は楽になるので生産性が上がったかのように錯覚するかも知れませんが,経営者が仕事をしなくなる結果,企業全体,業界全体としては,生産性が下がるでしょう。

ホワイトカラー・エグゼンプション」は仕事のできない経営者個人以外,だれの利益にもなりません。企業の競争力,業界全体の生産性,国家全体の生産性にとって,マイナスの効果しかありません。即刻廃案,いや法案提出自体をやめるべきです。

定数是正と参議院 その2

 ごぶさたしてます。更新が大分遅れてしまいました。

 前回のブログで,国会議員の定数是正を第一院たる衆議院で徹底するには参議院の代わりに「地方」という「少数派」に配慮した選出方法による第二院を設けるよう憲法を改正することが必要であると述べました。では具体的にはどのような条文にすべきかが今回のテーマです。

 新しい第二院の名称は,従前の参議院と区別するため,ここでは仮に「道州院」とするという前提で話を進めますが,別に何でも構いません。「参議院」のままでも問題はなく,その場合は名称を変更するだけの改正,具体的には42条,46条,54条及び60条の改正は不要となります。

 本題に入りますが,「道州院」は選出された地方の利益を代表する議員の集まりですから,まずそのような法的位置づけを明らかにします。

 

第四十三条  両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

 ↓

第四十三条 衆議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

2  道州院は、最大単位の地方公共団体を構成する住民を代表する選挙された議員でこれを組織する。

 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

 

 そして前回のブログで述べたとおり,憲法の一般原則に反する選出方法は憲法上の定めによる例外とせねばなりませんから,その規定を置きます。

 

第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 ↓

第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、法律でこれを定める。

2 道州院の議員は,最大単位の地方公共団体の区域において,選挙し,各地方公共団体において選挙すべき議員の数は,一人とする。

2 道州院の議員は,最大単位の地方公共団体の区域において,選挙し,各地方公共団体において選挙すべき議員の数は,すべての地方公共団体において,同一とし,法律でこれを定める。

 

「すべての地方公共団体」以下は端的に「一人とする。」でも構いません。「道州院」も現在の参議院と同じく一度に半数ずつしか改選しない前提ですので,一度に選出される数が一人なら「道州院」には一つの地方につき合計二人ずつ議員がいるわけです。うち一人はたとえば現職の知事のような文字どおりその地方を代表する人がなり,もう一人は専任で常に関わっていられる人を選べばよいのではないかと私は考えます(どういう人を選ぶかは私ではなく改正後の選挙で各有権者が考えることではありますが。)。「道州院」の議員は地方の代表者ですから,地方公共団体の一員であることと何ら利害が相反するものではなく,むしろ望ましいとさえいえるかもしれません。そこで,次のような条文を置くことにします。

 

第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によて差別してはならない。

 ↓

第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によて差別してはならない。

2 道州院議員は,その代表する住民の属する自治体又はその区域内にある自治体の長,議会の議員その他の職員と兼任することができる。

 

こうすれば,知事等は本来の職務で多忙ですから普段はもう一人の専任の議員が地方の利害を代表し,重大な局面では知事等が地方の意向を直接中央に伝えることができます。

しかし,従前の参議院は必ずしも地方の利害に関わるわけではない国政の懸案をすべて審議することが期待されているところ,多忙な知事等にそのような役割は期待できません。「道州院」の役割は,地方の代表として,「少数者」である地方の利益を侵害しかねないような法案の成立を阻止することにあり,地方の利害に関わらない国政の懸案すべてについて審議することまではそもそも必要ありません。そのようなことをしていては,多忙な兼任議員に無駄な労力を使わせた上,十分な審議も,従って適正な結論も期待できず,かつ必要な法案の成立までに無駄な時間を浪費し国政の渋滞を招くことにもなります。そこで次のような改正によって,「道州院」は阻止的権能だけを持たせるようにします。

 

第五十九条  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。

2  衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。

3  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。

4  参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

 ↓

第五十九条  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、道州院が,衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、これと異なつた議決をしないとき(両議院で可決したときを含む。),法律となる。

2  衆議院で可決し、道州院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。

3  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。

4  参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

 

第二院は,衆議院から送られた法案に対して,衆議院と異なった議決をするかしないかどちらかしか論理的にはありえませんから,改正案第一項の括弧書きは本来は不要です。しかし,実際問題としては,衆議院から送られた法案に対する第二院の対応としては具体的には①原案通りに可決,②修正して可決,③否決,④決議しない,の4つがありうるところ,②が「異なった議決」にあたるか否かは解釈が分かれる可能性があります。一部否決・一部可決という議決だと考えれば第二院で可決した部分に限って「異なった議決をしないとき」にあたり可決,つまり第二院の修正どおり法律となる,と解釈することになるでしょうし,修正したのだから「異なった議決」だと考えることもできるでしょう。私としてはこの場合についてまで現在の参議院の取り扱い(参議院の修正どおりに法律となる。)を変更する意図はありませんので,そのことを明確にするために改正案第一項の括弧書きを記載しました。①の場合は現行憲法なら59条1項,改正案でも59条1項に基づき衆議院案どおり法律となり,③の場合についてはそもそも現行憲法どおり改正しないという案ですので,いずれも取り扱いは現行憲法と変わりません。変わるのは④の場合だけで,現行憲法なら衆議院が59条4項に基づき否決とみなして再可決するのでない限り衆議院の法律案は廃案となりますが,改正案では「異なった議決をしないとき」にあたり,59条1項に基づき衆議院案どおり法律となります。

 ところで,「道州院」の議員は「少数者」である地方の代表ですから,国の行政の頂点に立つ内閣総理大臣という地位とは相容れない立場にあるというべきです。仮に地方公共団体の知事等との兼任を認めるのであれば,同じ人間が同時に地方公共団体の知事等と内閣総理大臣とを憲法上は兼任できることにもなりかねません。そこで,現在は憲法上は参議院議員でも内閣総理大臣になれますが,改正案では衆議院議員に限ることとしました。

 

第六十七条  内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だて、これを行

2  衆議院参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

 ↓

第六十七条  内閣総理大臣は、衆議院議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だて、これを行

2  衆議院道州院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、道州院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

 

 ここまで述べてきた「道州院」の地方代表たる性質からすれば,そもそも内閣総理大臣の指名権自体「道州院」には認めるべきではない,内閣総理大臣の指名は,「少数者」たる地方の利益を守ることとは関係のない純然たる国政の懸案であって,そのようなことに「道州院」議員を煩わせるべきではないという考えもあり得るでしょう。しかし私は,国の行政の頂点に立つ内閣総理大臣の指名について一定の権限を「道州院」が持つことによって,国が「少数者」たる地方の意向に耳を傾けるようになる効果がある程度期待でき,また「道州院」側もそのような権限を持つことによってその結果に一定の責任を持つことになり,無責任な要求をかえって抑制する効果が期待でき,国と地方とのコミュニケーションを促進する効果が期待できると考えますし,最終的には衆議院の優越が認められていますから,過大な権限とまではいえないと思います。そして一定の権限を認めるという前提に立てば,「道州院」議員には積極的に審議をして早期に決議をしてもらうのでなければ,国の行政に空白が生じることになります。67条1項に明記されているとおり総選挙後最初に処理されなければならないとされている重要案件であることからすれば,「道州院」議員の手を煩わせるとしても不当とはいえないと思います。よって67条2項については第二院の名称以外改正の必要はないと考えます。

ところで,冒頭で,54条の緊急集会に関する規定については名称以外改正しないと述べましたが,「道州院」に緊急集会まで認めるのはやはりここまで述べてきた「道州院」の地方代表たる性質にそぐわないのではないか,「地方の利害に関わらない国政の懸案すべてについて審議すること」に変わりなくやはり「道州院」議員を無用に煩わせるのではないか,という疑問があり得るでしょう。しかし,緊急集会は文字通り緊急の場合にやむなく招集されるものであって道州院議員の手を煩わせるのもやむを得ない面があること,道州院議員も全国民の代表ではないにせよ選挙で選ばれた存在には変わりなく緊急時の代用としては不当ではなく,その措置も臨時のものであって効力は限られていることからすれば,改正まで考える必要はないと考えました。

 最後に,いくら第二院で「少数派」たる地方の意見を反映させるようにしても,それだけで第一院たる衆議院の定数是正がすんなり進む保証はありません。その是正のために訴訟に訴えるという手段がよく使われてきましたが,違憲故に無効とする最高裁判決が出たことはありません。これは世間では裁判官の考え方の問題とされることが多いように思いますが,法理論上のハードルもあるのです。

既に見たように,47条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」と定めています(改正案では「この憲法に特別の定のある場合を除いては、」という文言を付け加えるわけですが。)。従って,選挙を無効としたところで,その後の再選挙の方式は法律で定めるしかありません。法律が改正されない限り,再選挙も無効とされた法律に則ってやるほかないことになります。もちろんその選挙結果を合憲・有効ということはできません。では法律を改正するとして,その改正手続をする議員は違憲・無効の選挙で選ばれた議員です。改正法に正統性を認めることができるでしょうか? 仮に,無効とする範囲を,2倍を超えた選挙区だけとか訴訟の対象となった選挙区だけなどと一部だけに限定したとしても,無効とされた選挙区の有権者は,救済されるべき一番の被害者であるかもしれないのですが,正統な代表を国会に遅れないまま新選挙区が決められてしまうことになります。

 そこで,私は,憲法81条を改正し,最高裁判所違憲と判断した法律について,それが民主的過程そのものを傷つけているために立法による救済に理論上障害があると認められる場合は,民主的過程そのものを修復する措置を一時的に取れるように定めてはどうかと考えます。つまり,最高裁判所が合憲と考える選挙区の区割りを定めて,その区割りに従って1回だけ選挙ができることにしてはどうかということです。1回選挙すれば合憲的な代表者がそろいますから,1回だけできれば十分です。また違憲とされた法律がその後改正されていたならば選挙はそちらに基づいてすべきであり,裁判所がわざわざ定めをする必要はありません。そしてそのような定めができるのは能力的な問題からいっても最高裁判所に限定すべきです。

 ではどのような条文にすればいいでしょうか? ここまでおつきあいいただいた皆様は私の提案に多少なりとも関心をお持ちいただけた方々だと思います。ぜひ皆様も考えてみてください。

定数是正と参議院

 衆議院が解散され,連日選挙の話題がマスコミを賑わしています。その陰で,都会と地方とで1票の価値に差があり不平等だとして訴訟を起こそうとする動きがあるようです。1票の価値の不平等は長く問題とされてきたにもかかわらず,すっきりと解決の方向へ向かう様子は見えません。どうしたらよいのでしょうか? 私は参議院という存在に解決の鍵があると考えます。

 参議院は無用であるとする議論があります。フランス革命当時の代表的知識人の一人であるアベ・シェイエスは

「第二院は何のためにあるのか。同質ならば無用,異質なら有害である。」

と述べたそうですが,衆議院参議院とはどちらも民主的に議員が選出される議院であり「同質」ですからシェイエスの観点からは「無用」ということになりそうです。

 シェイエスより40年ほど前の時代に三権分立を唱えたことで著名な「法の精神」を執筆したモンテスキューは,同じ著書の中で二院制についても議論しています。その趣旨を私なりに現代風に「超訳」すると,要するに第二院とは少数派(マイノリティ)のためのものだというのです。人間はその有する個性にかかわらずすべて等しく尊厳ある存在であり,これが選挙制度上では一人一人が1票を平等に有するという形で現れます。しかし現実の人間は個性ある存在であり,ややもすれば似た個性の者同士が党派を形成しがちであって,その結果多数の党派を形成した者たちが,数の力で少数派の人権を侵害することがありえます。そこで,ある社会においてそのような人権侵害を受ける可能性がある少数派が存在する場合に,そのような少数派の意思を優遇して反映する第二院を置き,第一院の多数派が少数派の人権を侵害するような法律を制定するのを阻止できる権能を持たせて,彼らを保護するのです。しかしそのような第二院は民主的な議院であるとはいえませんから,あくまでも第一院の法律制定を阻止する権能を有することで足り,自ら法律を制定する権能までを持たせてはならないというのです。

 この議論からすると,現代の参議院憲法上は「少数派」を優遇するような選出方法は定められていませんから,やはり「無用」と言わざるを得ません。聞くところによると,GHQが作成した憲法草案では当時の大日本帝国憲法明治憲法)で設置されていた貴族院を廃止して一院制にすることになっていたところ,当時の日本政府側が議員や関係職員のリストラに反対してこれを回避するために参議院を設置することにしたという経緯があるようです。仮にそうではなかったとしても,存在理由のはっきりしない参議院の存在は,現行憲法の欠陥の一つと私は考えます。

 では参議院を廃止して一院制にするのがよいのでしょうか? それは結局,第二院を設置してまで保護すべき「少数派」が現代日本に存在すると考えるか否かということ帰せられるでしょう。モンテスキューが想定した「少数派」とは当時の貴族だったので,シェイエスに「異質なら有害」の一言で切り捨てられてしまいました。しかし現代日本にはそのような「少数派」が存在すると私は考えます。それは「地方」です。

 たとえば,鳥取県の人口は60万人ほどで,日本全国の人口の二百数十分の一しかいません。彼らに国会議員を1人選出する権能を与えるとすると,全国民を平等に扱おうとすれば,全部で二百数十人の国会議員を1回の選挙で選出できなければなりません。参議院だと憲法上一度に半分しか改選しない定めになっていますから,単純に考えれば全議員数はその2倍,四百二,三十人ほど必要ということになります。国会議員数を上記の人数より少なくするのであれば,鳥取県民だけで1人の国会議員を選出する権能を与えるのは全国民の二百数十分の一でしかない「少数派」に対する優遇になってしまいます。しかし,そのような「優遇」を許さない,即ち,おそらくは地域の実情も利害も異なるであろう他府県民と一緒でなければ1人の国会議員を選出することもできないとすることに問題はないのでしょうか? 私は,この点は「少数派」に配慮すべきではないかと考えます。多くの国会議員もそう考えるからこそ,長く定数是正が徹底されなかったのであって,必ずしも自分たちの利害だけが原因ではなかったのではないかと思います。

 しかし,このような優遇を選ばれる側の国会議員だけで決めてしまうのは問題があります。憲法は,既に多くの方が指摘するとおり,1票の平等を定めているのであって,かかる優遇はその重大な例外になりますから,その定めもまた憲法によらねばなりません。憲法を改正して参議院を廃止し,「少数派」の地方に配慮した方法で所属議員を選出する,全国民ではなく各地方を代表する第二院を創設し,その所属議員の選出方法も具体的に憲法に規定すべきです。そしてそのような第二院を創設すること及びその所属議員の選出方法について,憲法改正手続の中の国民投票という形で国民自らの了承を得るべきです。このようにして初めてかかる優遇は憲法上の正当性を得られるのです。こうして地方という「少数派」に対する配慮を確保した上で,第一院である衆議院では厳格に1票の平等を求めるべきです。

 では具体的な条文はどうあるべきか? それについては次回に論じたいと思います。

ワールドカップ

 日本にとってのワールドカップが終わりました。世界の厚い壁の前にまるで歯がたたなかったという印象でした。ジョホールバルで勝利して始めてワールドカップに出場したころの試合ぶりを思い出しました。
 これまで、選手の皆様ほか関係者の皆様は、今回良い結果を出すために、ご努力を重ね、レベルアップを図ってこられたものと思います。
 しかし、世界はもっとレベルアップしていた。世界相手の競争に終わりはなく、世界の壁は、依然として、厚く、高くそびえ立っている。そういうことだったのでしょう。
 依然として、厚く、高いからこそ、乗り越える価値がある、そう思って、4年後を目指し、頑張っていただきたいと思います。